キャリアパワー

作文

命をつなぐ仕事

京都女子大学附属小学校5年 遠山史桜さん

私は、今、医師を志している。私の母によると、物心付いた時には、「お医者さんになる。」と言っていたらしいので、いつ、何をきっかけに医師を志すようになったのか、厳密には分からない。

ただ、私のおぼろげな記憶をたぐると、そのきっかけは私が二歳の時に遡る。母が弟を妊娠中、私は切迫早産で出産まで長期間入院していた。入院した当初は、まだ弟の肺機能が完成していない週数で、その時点で弟が生まれてしまったら、生存可能性は五分五分。仮に生きられたとしても人工呼吸器は一生外せないだろうと医師か告げられていたそうだ。だから、母は二十四時間点滴を受け、絶対安静を強いられていたのだが、まだ幼かったわたしにはそんな母の苦労は分からず、母と離れて過ごすのが寂しかった。祖母に毎日のように母の病室へ連れて行ってもらっていたが、母と弟のためと幼いながらも我慢していたことは今でも覚えている。結果的に、弟は無事正期産で生まれてくることが出来、今ではうるさい程のやんちゃ坊主になっている。弟が生まれた時、母が「お医者さんが、お母さんと凱士の命をつないでくれたんだよ。」と話してくれ、その時、お医者さんってすごいと思ったのが、私の記憶の中で私が医師を志した最初のきっかけだと思う。

私が一年生の冬、祖父が小脳出血で突然倒れた。幸い処置が早く、一命を取り留めたものの、それまでとても元気だった祖父が自分一人では歩くことはおろか、ベッドから動けなくなった。そんな姿を見て、人間のもろさを感じた。しかし、祖父は若干の後遺症はのこっているものの日々懸命なリハビリを続け、今では室内では一人で歩ける。一人で入浴もできるほどに回復している。そして、そんな祖父を見ていると、人間のしなやかさ、たくましさの一面も感じた。そして、何より、やはりここでも医師の存在は大きく、このことがきっかけで、今まで漠然と抱いていた医師への憧れのような思いから、明確に医師を将来の仕事として志すようになったと言えるだろう。

祖父のことが私が医師を志す大きなきっかけとなったこともあり、私は、医師の中でも特に脳外科医になりたいという思いが強い。手術という自分の持ち得る技術で、目の前の患者さんの命を救える。こんなにやりがいのある仕事は他にあるだろうかと思うほど、私は医師の仕事の使命感を大きさに震える。私がピアノの練習を続けていたり、裁縫をしているのも、将来手術をするときに指先が器用なほうが有利になると思うからだ。

ところが、最近、そんな気持ちに少し変化が表れてきた。「山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた」という本を読んだからだ。この本の中で、山中教授は、最初からiPS細胞を作ろうと思っていたわけではなく、いろいろな研究をしていく中で、iPS細胞に出会うことが出来たと述べられている。確かに、未来のことは誰にも分からない。その中で、目標に向かって努力することは大切だけれども、もしかしたらたどり着くゴールは自分が思っていた場所ではないところにあるかもしれない。その可能性があるのが人生なのだということを学んだ。また、iPS細胞が、これからの医学にとっての希望だとも書かれていて、それを読んで、私自身もワクワクした。今まで医師になって、目の前の患者さんの命を救いたいと思っていたが、目の前に見える患者さんはもちろん、未来の何千、何万人もの命をも救うことができるということを知り、臨床医ではなく、研究医として未来の医学のために様々な研究をしていく道もあるのだということにも興味が湧いてきている。

正直、現時点では、自分が医師としてどのような仕事をしているのか、具体的に明確には決め切れていない。それでも、一つだけ確かなことは、人の命はかけがえのないもので、私は将来、医師として、その命をつなぐ手伝いをしたいということだ。

今、世界中がコロナ禍となり、医療従事者が大変な思いをされていることをニュースなどで耳にしない日はない。それくらい医師という仕事は責任重大だということを日々突き付けられ、私にそんな仕事が務まるのかという不安がないかと言えば嘘になる。それでも、幼い頃に抱いた気持ちは薄れることはなく、むしろより現実的に確固たる思いに変わっていっている気がする。その思いを胸に、日々今の私にできることを一つずつ努力していきたい。それが将来の自分につながると信じて。

講 評

命をつなぐ仕事の尊さや重大さを十分に認識しつつ、医師になってそういう仕事をしたいという確固たる決意が表明されていて、非常に頼もしく思えました。そのように決意するに至った過程も、実に整然と丁寧に述べられており、大変よくわかりました。