高学年の部
最優秀賞
「よろこびと一緒に」
明治学園小学校5年 能美になさん
「二十一番の方、三番診察室へどうぞ!」
明るい声が聞こえる。私は番号札を握りしめ、ちょっと小走りで診察室に入る。中でまっているのは白衣を着た母だ。母は眼科医。近視の私は時々、母のいる病院で診察を受けているのだ。
家にいる母と病院にいる母の決定的な違いは、声だ。病院にいる時の母の声は常に高く軽やかだ。声も普段より大きいし、はきはき話す。病院に来ているという不安をふきとばしてしまうかのような声で呼び込むのだ。
母が眼科医になろうと思ったのは小学校低学年の時。曾祖母が目の難病を患ったのがきっかけだったそうだ。今見えているものが見えなくなるという患者側の恐怖は、当時の母にはわからなかった。しかし「大好きなばあばに顔を見てもらえなくなってしまう」という患者家族としての恐怖は明確に理解した。そして母は眼科医を目指した。
母が専門としている病気は、現在の医学では完治が難しい。高価な薬を何度も注射しても、失明を「遅らせる」ことしかできないのだという。私ならそんな病気になってしまったら、心が沈んで、毎日が暗くなってしまいそうだ。何に対しても卑屈になり、家にひきこもってしまうかもしれない。しかし、母の診察室から出てくる患者さんは、笑顔の人が多い。待合室でも、お互いの病状について情報交換していて、とにかく明るい。一度勇気をもって話しかけたことがある。返ってきたのはこんな声だった。
「もうおばあちゃんやけ、あと死ぬだけやからって言ったら、先生が『それはだいぶ時間があるねー、それまでにきれいなものいっぱい見られるように一緒にがんばりましょう』とか言うんよ。しかもすっごい明るく。そうなん、まだ人生、希望があるんやな、って思えたんよ。」
「おじちゃんはな、ほとんど両目見えとらんけどね、ここにくれば先生に会えるからな。家におってもだーれもおらんけど、ここに来たら話ができる。聞いてくれるし、病気以外のことも覚えとってくれる。先生に会うのが楽しみで来てるんよ。」
「必ず診察の最後はね、また秋にお会いしましょうね、お待ちしていますね、って言ってくれるんよね。待っててくれる人がいるってのは、張り合いが出るんよ。」
みなが口々に『ここに来るのが楽しみ』というのを聞き、私はとても誇らしかった。母がほめられていたこともうれしかったが、実はうれしい理由はもう一つあった。
母は私と将来の話をする時「何になってもいい、自分の人生だから自分で選んで、責任もってはたらくように」と必ず言う。そしてさらに「何になりたいか決めるときには職業の上にちょっぴり飾りを足してごらん」というのだ。ちなみに母の目標は『“視界と気持ちを明るくする”眼科医』らしい。そのために母には決めたことがあった。見えない患者さんが頼りにするのは声だ。母は明るい声の出し方やポジティブな表現方法を磨いてきたのだという。患者さんたちと話をしたとき、母の目標が達成されていることがわかった。私はそれがとてもうれしくて、そして、うらやましかった。
家に帰って、母にこの話をした。母は照れていたが、同時にすごく驚いてもいた。私が知らない人に話しかけていたからだ。そういえば、私はどちらかというと人見知りだし、会話が得意な方ではない。どうしてだろう。もしかしたら母の話し方が、私にも力をくれたのかもしれない。しばらく照れたあと母は、
「ママも、お仕事楽しいんだ。」
と言い、大きくて分厚い青いファイルを見せてくれた。中にはたくさんの手紙が入っていた。達筆な手紙、ぐねぐねと曲がっている字の手紙、鏡文字まじりで書かれたひらがなの手紙。全て患者さんからの手紙だった。かわいいひらがなの手紙の中身はこうだ。
『せんせえ、いつもあそんでくれてありがとお。またあそびにくるね。』
母はなんて幸せなのだとうと思った。自分のやりたい仕事を見つけ、達成すべき目標を立て、そのための努力をして、周囲にも認められる。はたらくよろこびを知っているというよりも、よろこびと一緒にはたらいていると言っても過言ではないだろう。
まだ様々な職業を知らない私にとって、はたらくよろこびを知ることは難しい。しかし、母を見て心に決めていることがある。
こんな風に仕事がしたい。
こんな仕事を、見つけたい。
身近にそう思える人がいること、それは私の最大の強みだ。
私が将来就きたい仕事、それは母のように
『よろこびと一緒にはたらける仕事』
なのである。
講 評
「はたらくよろこびを知っているというよりも、よろこびと一緒にはたらいていると言っても過言ではない」お母さんがいらっしゃって、色々とアドバイス頂けるというのは、本当に「最大の強み」ですね。徐々に視野を広めつつ、目標となる将来の仕事をじっくりと見定めていってください。文章の表現も構成も的確で、また、一つ一つの文字も丁寧にきっちりと書かれていて、大変良い作文になっていました。お母さんにとっては、こんな作文の書けるになさん自身が、お仕事以上の大きな「よろこび」に違いない、とも感じました。
優秀賞
「約束の仕事」
京都女子大学附属小学校6年 高木実怜さん
私は、今、薬剤師を目指している。この目標は友達との会話の中で生まれた「約束」だ。
四年生の冬。友達が、
「クリームぬっても手荒れが治らない。」
と言ってきた。私は、大変だな、と思うと同時に、「治したい」という気持ちがわいてきた。だから、私は
「私が、いつか治せる薬をつくってみせる。」
と言った。友達は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに、
「約束だよ。」
と言って、笑ってくれた。その笑顔は今でも、はっきりと、覚えている。
しかし、薬剤師という目標は、理系の苦手な私にとって、レベルが高い目標だった。それでも、薬剤師をあきらめたことは一度もない。あの約束は、友達にとっては小さな約束、いや、会話の中で生まれたちょっとしたじょうだん、かもしれない。でも、私にとっては、私の中の「何か」がゆれ動いた会話だったからだ。
私は世界中の、病気で困っている人を助ける、などという、大きな目標があるわけではない。ただ、友達の手荒れを治せる薬をつくれたらそれでよかった。そう思っていた。しかし、世界中の人々が、病気で苦しい思いをしている、という事実を聞いて、友達の手荒れさえ、治ればいいとは思えなくなっていた。
「人を治す仕事」と聞いて、最初にうかぶのは、ほとんどの人が医者だと思う。私も医者が思いうかんだ。でも、それと同時にうかんでくるのが薬剤師だ。手術をしたり、診察するのは医者でも、必要な薬をつくり、人を治すのは薬剤師だからだ。私は、薬剤師は、「縁の下の力持ち」だと思う。ほとんどの人が、薬剤師のことを意識しながら薬を飲むことはない。それでも、だれかのために薬をつくっている薬剤師を尊敬する。
私は、自分でも分かっているほどの、三日坊ずだ。あまり、努力をせず、すぐにあきらめてしまう性格で、薬剤師になれるのか、不安になることがある。でも、私には、守りたい「約束」がある。その約束を考えると、不安がなくなって、やる気がおきてくる。
薬剤師は、一分一秒でもはやく、薬をつくらなければならない。自分は知らないだれかの命を背負って。だれかの命を背負うことは責任重大だ。間に合わないことだってあるだろう。それでも、どんなことがあっても、あきらめずに一人でも多くの人を助けるために薬を作りつづけている。私は前まで、命を背負える自信がなかった。けれど、今の世界で苦しんでいる人を考えると、自信がうまれてくる。
私は、薬剤師のことを全然知らない。でも、今一つ、言えることは、私は薬剤師という、責任重大な仕事を目指しているということだ。
友達との約束以来、私の中でゆれ続けている「何か」が何かは、自分でも分からない。やる気、かもしれないし、自信、かもしれない。どちらにしても、その「何か」が私の薬剤師という目標につながっていることはたしかだ。
私は、薬剤師になって、いろんな人を助けたい。もちろん、友達の手荒れも。みんなが苦しい思いをしないように。小さな約束を守るために。
講 評
友達にとっては小さなものだったかもしれない、友達との何気ない会話の中で生まれた「約束」が、薬剤師という高い目標につながり、それを支えているのだということが、その間の気持ちの揺れ動きなどとともに、一つの作文にうまくまとめられていました。これからも、約束を大事にして目標に向かって歩んでください。ただ一方で、約束に縛られすぎない方がいい場合もあるかもしれない、とも思います。
入賞
「私の将来の夢が看護師になるまで」
京都女子大学附属小学校6年 堀沙優さん
「私の将来の夢はある出来事で変わった。」
私の幼い時の夢は、ペットショップの人でした。けど、5才の時のある出来事で変わりました。
5才の夏ころ、とつぜん首が痛くなりました。その次の日に熱がでて、高熱だったので近所の病院に行きました。その時にお医者さんから、
「大きな病院に行ってください。」
と言われ、大きな病院に行きました。大きな病院のお医者さんから、
「すぐに入院してください。」
と言われました。その日に入院しました。入院をしてから、3日目をすぎると少しずつ元気になってきました。看護師さんが部屋に入ってきて、私が持ってきたぬいぐるみでぬいぐるみの声まねをしてくれました。
「私はミニーよ私の好きなものはミッキーよあなたの好きなものは。」
と言ってくれたけど、私はとっても人見知りだったので、恥ずかしくて何にもしゃべれませんでした。でも、その看護師さんは毎日、私の部屋にきてくれて少しずつ仲良くなっていきました。私は、その時看護師さんがいなかったら、しんどくて、つまらない入院生活だったと思います。
この出来事で、看護師さんの夢がぼんやりうかんできました。もう1つなろうと思った理由があります。
4年生の冬ごろ、私は矯正をしていました。矯正の先生から、
「歯をぬかないと、次に進めませんので歯医者に行って、歯をぬいてきてください。」
と言われ、歯医者に行きました。歯医者の先生から、
「ぬいても歯は、生えてきません。だけど手術すれば出来ます。」
と言われました。ここで矯正をやめるわけには、いかないので手術することになりました。手術当日、私はドキドキしていました。全身麻酔なんか初めてなので、とっても緊張していました。順番が回ってきました。体は元気なので、歩いて手術室まで行きました。手術室は、手術台と大きなライトがあって、ドラマで観たような景色でした。すっごく怖くて、涙目になっていると、看護師さんが
「怖いよね、でも大丈夫だからね。」
と言ってくれました。しかもそっと手をにぎってくれました。その時、少し怖い気持ちがなくなった気がしました。その時私は、
「絶対に看護師になる。」
と決めました。
これまでの出来事のように、気づかいの出来る看護師さんに助けられたので、私も、怖がっている患者さんに、
「大丈夫ですよ。」
と声をかけられる看護師さんになりたいです。
講 評
幼い時はペットショップの人であった将来の夢が、二つの出来事を通して「看護師」になるまでの経緯が、素直に述べられていて、好感が持てました。また、「絶対に看護師になる」という決意にいたるまでの気持ちの変化が、よく理解できました。気づかいのある看護師さん、いいですね。近い将来、お世話になりたいものです。
入賞
「海苔漁師さんとお餅屋さんとの出逢い」
京都女子大学附属小学校6年 田仲那帆さん
音楽から受けた感動が全身に伝わってきたことがあります。それらはプロの音楽家によってではなく、海苔漁師やお餅屋さんをしている普通のおじさんの奏でるピアノでした。
ある日YouTubeを見ていて、徳永さんという海苔漁師のおじさんに釘付けになりました。普段は演歌しか聴かない徳永さんですが、たまたまテレビでピアニストのフジコ・ヘミングさんが弾くラ・カンパネラを聴いて、この曲を弾いてみたいと衝動的に思われました。この時、徳永さんは五十二歳。ピアノの先生でもある奥様に「絶対に無理」と言われても、楽譜も読めない状態から、一音一音光るアプリの楽譜を見ながら、ゴツゴツした指で毎日八時間、八年間欠かさず練習を続けた結果、家族の働きかけでフジコ・ヘミングさんの前でピアノを披露することができたのです。
「いくつになっても夢は追いかければつかまる。」
「目標を立てたら周りの人に言うこと。周りの人も応援してくれるし、なにより挫折したとき支えてくれるから。」
という言葉に感銘を受けました。この人に会ってみたいと強く想い、両親に何度も伝えました。そして去年のことです。佐賀から岐阜にいらっしゃるという徳永さんに、母がこっそりメッセージを送ったのです。徳永さんのいう通り、周りの人に目標や夢を伝えていたら、それを叶えようとしてくれる人がいました。そして徳永さんもそんな私の思いを受け入れてくださいました。
いよいよ岐阜でのご対面の日がきました。身体はいかついのですが、お茶目な徳永さんが弾くラ・カンパネラを生で聴くことができました。こんな難しい曲を途中で投げ出さず八年間コツコツ弾き続けたという努力の音が響きます。私の目からは涙がポロポロこぼれてきました。徳永さんはラ・カンパネラを弾けるのも奇跡。フジコさんに会えたのも奇跡。普通なら会えなかった私に会えたのも奇跡ですねと言ってくださいました。
そしてこの日、もう一人徳永さんに会いに来た人がいました。お餅屋さんです。お餅屋さんもテレビを見て徳永さんに憧れて、自分もまた楽譜が読めない状態からラ・カンパネラを弾くぞと一念発起し、徳永さんの目の前で弾くために富山から岐阜へ来られました。緊張したお餅屋さんの演奏が始まりました。今にも止まりそうなラ・カンパネラです。でも誰も笑いません。息を殺して、手を膝の上でグーッと握りしめ、心の中で頑張れと何回叫んだことでしょうか。ちっとも上手い演奏ではないのに、どうしてでしょう。また涙が流れてきました。一生懸命な姿は美しいなと思いました。
私はこの時すでに、徳永さんやお餅屋さんより楽譜が読める人でした。なので、ピアノをきちんと弾ける人になりたいなと思いました。基礎練習は本当に退屈な曲な上に、指づかいなど細かなところでひっかかり、なかなか進んでいかない魔の楽譜なのですが、これをきっちり仕上げていこうと思うようになりました。そうでないと私の指の力はまだまだ弱く、ラ・カンパネラという大曲を弾きこなすことさえできないからです。
しかし誘惑の多い日常です。ピアノの練習もご近所迷惑になるので夜はできません。
明日やる。明日こそやる。これを続けた結果の差について、野球のイチローさんが名言を残しておられます。今日と明日は、一日しか違わないけれど、一日と十日では違うはず。一日と百日目は当然違う。明日やろうの人はこの一日の大きさがわからない。一日一日を大切に今できることをコツコツと続けること。それが未来への道しるべとなる。
これを実践したのが徳永さんなんだなと思います。徳永さんは立ち止まらず、新しい目標に向かって駆け抜けていらっしゃいます。今年は徳永さんのドキュメンタリー映画が公開されるそうです。一番乗りで見に行きたいと思っています。
私の次の目標もできました。お餅屋さんと一緒のピアノコンクールに出場します。お餅屋さんが弾くのは、もちろんラ・カンパネラ。息を殺して、手を膝の上でグーッと握りしめ見守りたいと思います。きれいな涙がまた出るかもしれません。
私も曲の良さを伝えられるような演奏をしたいです。色々な経験を積み重ねて、徳永さんとお餅屋さんに、私のカンパネラをいつか聴いてもらえたら嬉しいです。
それから徳永さんは学校などを訪れて講演活動もされています。もちろんラ・カンパネラも演奏してくださいます。卒業までに私の学校に来てくださるよう働きかけることができないか模索中です。みんなにも徳永さんのことを知ってほしいです。
講 評
二人の「普通のおじさん」との出逢いの様子と、彼らの奏でるピアノから那帆さんが受けた感動の大きさが、うまく描けていました。また、そういう感動を通して得られた教訓や目標、希望についても、よく伝わってきました。それらが「はたらくよろこび」ということとうまく結ぶ付けられていたら、さらに良くなったことでしょう。
入賞
「自分の楽しいをみんなの喜びに」
京都女子大学附属小学校6年 小塩春菜さん
私は影響力のある人になりたい。魅力的で尊敬される人になりたい。誰かに希望を与えることができたり、たくさんの立場の人に寄り添って悩みを解決したりすることができる仕事につきたい。そのためには相手の身になり、気持ちを考えることが大切だ。しかしそれってとても難しい。しんどい。それを楽しめることができたらいいのにと思った。もし楽しいと感じることができたなら、自分の生きがいとなり、また、感謝されることで、続けられるのではないだろうか。そこで私は働くことそのものが「自分の楽しいを探す」、「自分の楽しいにつながる」ものなのではと考えた。
私にはもう一つ夢がある。それは「充実した一人暮らし」だ。自分で美味しい食べものや好みの服などを買ったり、親孝行をしたりしたい。そうなるとお金が必要だ。できればお給料はたくさんもらいたい。そのためには失敗を恐れず挑戦したり、創意工夫をしたりする、発想力も必要だと思う。また、そういうことをできると結果的に影響力のある人になれるのかなとも思った。
では、影響力のある人の仕事は具体的にどのようなものがあるだろうか。私が毎日通っている学校には、先生がいる。知識だけではなく道徳的なことも教えてくれる。私は日々、先生からたくさんのことを学ぶことで、自分の視野が広がっていることを実感する。先生という仕事もいいかもしれない。また、自分が教えてもらったことで面白い、楽しいと感じたことを編集して出版するのもいいかもしれない。最近はSNSなど、インターネットがあらゆる場面で活用されている。それらを通して自分から発信するという方法もある。他にも、私は沖ノ鳥島の海底にある石油の代替エネルギーとして期待されているメタンハイドレートに付いて興味がある。何かを研究したりするのもよさそうだ。このように、世界には様々な仕事があり、(これからできる仕事もあるのかもしれない)可能性は無限大であることがわかった。
しかし、ただ何も考えずに生きていても、これらの仕事につけるわけではない。もちろん資格やセンスもいる。資格を取るには大学に通わなければいけないかもしれない。そのためのお金はきっと親が負担してくれることになるだろう。また、大学に通えても、学習の内容や勉強法などは小学校と同じように先生に教えてもらうことが多いだろうし、友だちに相談することもあるだろう。夢を叶えるためにたくさんの人にお世話になり、迷惑をかけることが、人一倍世話焼きの私には安易に想像できた。
私にはこの仕事につきたい、という夢はない。これからたくさんのことを学んでいく中でやってみたいと強く思う仕事を見つけて、「自分の楽しいを探す」旅に出ることで自分の「ワクワク」を作りながら誰かに良い影響を与えたり、稼いだお金で恩返ししたりなど、それまでお世話になった人を含め、結果的に多くの人を喜ばせることができたら最高だ!
講 評
「私は影響力のある人になりたい。魅力的で尊敬される人になりたい」という書き出しを初めとして、率直で力強く述べられているのが、頼もしく印象的でした。その力強さは、一つ一つの文字にもあふれているように感じました。また、タイトル「自分の楽しいをみんなの喜びに」に端的に示された春菜さんの熱い思いも、よく伝わってきました。
入賞
無題
羽衣小学校5年 岩倉直人さん
僕は、アナウンサーになりたいです。学校の授業で僕が教科書を読むと、たくさんの先生が「上手」「素晴らしい」と褒めてくれます。宿題の音読で、『ずっとずっと大好きだよ』や『モチモチの木』、『ごんぎつね』等を僕が読むと、母は感動して泣いちゃうほどです。委員会では放送部で、一日の始まりをアナウンスしたり、給食が楽しめるようにクラスメートのリクエストを聞いて人気の曲を流したりしています。近くのスーパーで一日こども店長を務めた時は、トップバッターで店内放送を担当しました。クラスメートにもスーパーの人にも褒めてもらえて、とても嬉しかったです。アナウンサーは、僕にぴったりの職業だと思っています。
アナウンサーになるには、まず、漢字を正しく読めないといけないと考えて、僕は、小学二年生の時から漢字検定を受け始めました。年に三回、受験できるので、次々と級が上がり、小学四年生の夏には、高校在学程度の準二級に合格しました。高校卒業程度の二級を受験したかったけれど、とても難しかったので、受験できずにいました。この夏、ようやく合格点を取れるようになったので、受験しました。自信満々でした。なのに、不合格でした。気が付いたら、涙がポロポロと落ちて、ご飯もお菓子も食べたくなくなりました。
一週間が経ち、結果をしっかりと見ることが出来るようになりました。「受験のために積み重ねた努力はあなたの力となっています。今回の結果を振り返り、次回の合格につなげましょう!」というメッセージが目に留まりました。そして、去年のデータでは、十二歳以下の受験者が七百八十二人いて、二百九十一人が合格していることが分かりました。
現在、日本には二千五百人くらいのアナウンサーがいるそうです。四十年くらい勤めるとして、同年のアナウンサーは六十人です。分かってはいたものの、漢字検定に合格するより、ずっと難しいものだと実感しました。
今の僕は、漢字検定に再挑戦する気にはなれずにいます。このまま、諦めるのか、それとも奮闘するのか。アナウンサーへの道のりは厳しいけれど、自分と向き合って、悩んでいます。
講 評
アナウンスも漢字検定も、自信があったのに、不合格になったり難しさを実感したりで、どうすべきか悩んでいるのですね。そうした気持ちが素直に書いてある点、作文としてはかえって印象的で、良かったと思います。失敗を恐れずに、何度でも挑戦すればいいのでは、と思います。粘り強くがんばってください。
入賞
「お母さん、おうえんしてるよ!」
神足小学校4年 張田知華子さん
「働く」ということは、いっぱい仕事をして、お金をかせぐことだとおもいます。お金がないと、たべ物を買えないし、家に住むこともできず、生きていけないからです。
私のお母さんは、コロナウイルスのかんせんかく大のせいで働き方が大きく変わってしまったために、心のバランスをくずしてしまいました。お母さんは「働くのがしんどい。何で働くのか分からない。」といってないてしまいました。そして、一年間仕事を休むことになってしまいました。私は、お母さんに元気になってもらいたいとおもって、お手紙をかいたり、ハグをしたり、はげましたりしました。
第一に、私は働いているお母さんが大好きだからです。もちろん、働いていないお母さんもどんなお母さんも大好きです。でも、仕事をしているお母さんが、バンザイをしながら、「仕事終わった~!」と笑顔になっているのを見るのが大好きです。
第二に、お母さんが人からたよりにされているのを見るのは、かっこいいからです。お母さんは先生をしていますが、じゅ業のためのプリントやろん文をパソコンでカタカタと作っているのを見るのはかっこいいし、「私も宿題しなきゃ」とおもいます。
私もクラスの学級委員で、クラスのみんなからたよりにされると、「学級委員の仕事をやってよかった。もっとがんばろう」とおもえてうれしい気持ちになります。
学級委員の仕事をしていると、たんにんの湯川先生に必要とされることがあります。なぜなら、湯川先生は他の小学校からうつってきたばかりで、この神足小学校の一年目でわからないことがあるからです。湯川先生の役に立てて、うれしい気持ちになります。
お母さんが病気になって、にこにこしなくなってしまいました。今は仕事にもどって、少しにこにこできるようになってきました。これは、私が、たくさんお母さんのことをほめたことがよかったのだとおもいます。ちょくせつほめることもあったし、お手紙をかいたこともありました。おり紙でお花をおってプレゼントもしました。おかあさんはとてもよろこんで宝箱にしまっていました。このことから、人にほめられることが働くよろこびにつながるのだと知りました。
私は、しょうらい「みんなが助かる」とおもってもらえる仕事につきたいです。まだ具体的にはわからないけれど、老人ホームやボランティアで働きたいとおもっています。なぜなら、自分のそんざいに気づいてもらえなくてもいいので、活動の成果にだれかがよろこんでくれたらうれしいからです。どんな仕事につくかはまだまだ分からないけれど、一人でもよろこんでくれたらうれしいです。
講 評
心のバランスをくずして一年間仕事を休むことになった、大好きなお母さんに寄りそった経験を一つのきっかけとして、一人でも多くの人がよろこんでくれる仕事につきたいと思ったのですね。具体的な職種などは、これからゆっくり考えてください。また、とてもていねいにしっかりと文字が書けていて、感心しました。